フリースペース To Be主催
登校拒否文化医療研究所の高橋所長の論文から(1)=6月24日・金=
フリースペースTo Be(代表・日本キリスト教団大曲教会の横井伸夫さん)主催の「子どもの自立を考える集い」で講師を努めている登校拒否文化医療研究所の高橋良臣所長から本紙に「思春期のころの親子関係づくり」と題した論文が送られてきた。高橋さんは内閣府青少年問題相談機関の一員。昭和47年から登校拒否・不登校の子どもたちと共同生活をしている。心の相談室、フリースクール「好文堂教室」、生活体験学園「大須学園」を運営している。全国各地の不登校・引きこもりの親の会にも協力している。以下、その論文を2回にわたって掲載する。
【思春期のころの親子関係づくり】
子供が幼い頃の親子関係は、生まれてきた子供を育てるために、子供の依存に対して親が可能な限り応じていく関係になります。子供から親への一方的な依存関係は、性成長が始まる思春期になって大きく変化しますし、依存関係がうまく変化しなければ関係は崩れます。変化の理由は、思春期頃になると、子供は親に頼らなくても自分で実現できる部分が生じてくるからです。もう一つの理由は親からの細々とした生活介入に対する反発や反抗が心の成長に伴い生まれてくるからです。大きくはこの二つの要因によって、子供は親離れをしていく準備をします。
親が子供を育てたいという思いで、親から子供に向けて与え、差し出されたものを、自分の成長のために貰うだけであった受動的な幼い時期から、自分の成長のために何かを獲得しようという欲望が生じ、能動的な時期に変化していきます。親の側でも子供の側でも、この変化を受け入れられずに混乱する場合もあります。一般的にこの変化を受容できないと、思春期の親子関係づくりはかなり難しいものになります。
1.親が意図的に「子供を自立させよう」とする場合
親は幼い子供には自立の方向を指し示して挙げる必要があります。後には本人が自分で獲得した欲望に沿う形で自立していくものでもあります。元来、自立についての誤解もたくさんあります。一人で全てを完全にやり遂げることだけが自立と思い込んでいる人が結構います。その年齢にふさわしい相互依存が相手との間でできるのが成熟した自立です。
したがって、与える側にいた親は、今まで受けるだけの側にいた子供が社会参加のためのスキル(技術、能力、機能)をどの程度獲得しているのか、どんな欲望を獲得しているのかを理解した上で、子供とのかかわりを変えていかなければなりません。
「よその子たちは家事のほとんどをやっているというから、ウチの子にもやらせよう」とすると、たいがい親子関係は崩れてきます。ウチの子の場合には、それまでの経験で家事を快く楽しくできたかどうか、家事をやりたい気持ちがあるかどうかなどを理解するなり検討しなければ、このような考え方そのものが、幼児期に行ってきた、差し出す(与える)だけの関係を継続させてしまいます。この場合、子供は受動的な親子関係をなかなか変えることはできなくなります。思春期になったからといっても、心の構成には個人差が多くあります。子供の側に「家事はお母さんにやってもらいたい」気持ちが継続的にあれば「少しは家事もやりなさい」という親の命令や指図の態度は、子供の反発を招きます。
「お母さんは今日は帰りが遅いから、夕食の下ごしらえはしておくので食事の支度をあたなにして貰いたい。できるかなぁ?お父さんの分も作って貰えると嬉しいな」という態度だと反発はほとんど招きません。日常生活の中ではそれくらいの不規則性はいつでもあるからです。子供にして見れば「それくらのことは仕方ない」状態です。いつも完全にはできるはずがないのが日常生活です。
2.とにかく勉強だけしていればいい、成績が良ければいい
これも親の側から子供へ向けて与え続ける関係になってしまいます。「あなたは家事なんかやらなくていいよ。勉強さえして、成績だけ良ければいいんだよ」では、子供の思春期は真っ暗になります。親から勉強だけを要求され続けた子供は、自分の社会適応能力が損なわれることに気づきません。成績が良い子供は自立しているかのような誤解も学校教育の中には依然として根強く残っています。繰り返しますが、自立は今かかわっている相手との関係で持ちつ持たれつの相互関係がうまくできることなのです。お互いが快さを感じるような関係が自立にはあります。
思春期に自然に生じる好奇心を規制され、自分づくりも暗に制限を加えられた子供は自己内部に生じてくる能動性のエネルギーを心の底に沈めておかなければなりません。しかし、それはいつまでも心の底に静まってはいません。強制的に沈められていた能動性エネルギーは、それが本人の不快につながるような関係や環境の変化が起こった場合には、衝動として心の構造を突き破って噴出してきます。神経症的な身体反応、暴力的な発散、異常な性的な言動など、周囲にも混乱を引き起こします。人間は一つのことだけして生きていくほど機械的にはできていません。
3.素直な良い子で居続けてほしい
「いつまでも親や教師の言いつけを守る、素直な良い子でいてほしい」という思いが強い親や教師は、いつまでも子供を支配下に置いておきたい人です。親や教師は子供が依存したものを与え続けなければなりません。子供が自発的に何かをしたいという気持ちが育ちません。
性成長期の思春期になると子供は自分の欲望に目覚めるのが普通です。その欲望はたいがい自発性を持っています。
親たちの目から見ると「勝手なことばかりしている」のですが、子供たちの価値観では「希望通りの実行している」のです。自己実現するということは、子供が自発性をもって自分のやり方で、欲望を実現させることです。それは親の目に適うものかどうかは不明確です。親の目で見れば稚拙なもの、無意味なもののように見える場合が多いはずです。子供はそのような稚拙で無意味なもののような体験の積み重ねから、有意義なものを発見して自分づくり(生きる意味)の足しにしていきます。親の冷たい視線を感じ、その親に反発しながら自己実現をしていきますから、親には辛いものになります親から見れば「あの子はちっとも親の言うことに耳を傾けない」ことになります。親にとって都合が良い事は言えません。
4.親子関係はどうすればいいのか
思春期の子供の多くは、親から与えられ続ける関係を抜け出そうとします。そして自分の気持ちに添うような生活を獲得しようという時期に向かいます。親から育てられた自分を基に、自分を育てる「自分育て」の時期に移ります。自分育てとはいっても、一人きりで自分を育てることはできません。親以外の人々にも依存したり、その相手にふさわしいお礼をしたりという、育ち合いをします。親は子供のそういう気持ちの変化に付き合う必要があります。例えば「ああ、疲れた」「まったく嫌になっちゃうよ」という気持ちの変化です。「疲れたって、何かあったの?」「珍しいね、嫌になるなんて」といった具合です。「疲れたなら早く寝なさい」や「嫌ならやめなさい」では子供の頃のかかわりと同じです。
自分育て、自分づくりを始めた子供の気持ちに添う対話が、思春期の親子関係に取り入れられる大切な要因です。子供は親の自分の姿を写す鏡のように利用する時期に来ています。完全な親、完璧な親を演じる必要はありません。子供の心にそこそこの満足感や快さを与える親になっていく力が大切です。そのためにも親も自分づくりが必要です。
5.親も自分育てをする時期
子供が思春期になると、性成長が生まれる社会性のある欲望に添う「自分育て」の時期に入ります。この「社会性がある欲望」が子供に獲得できていれば、親は子供の生活にはほとんど介入をしなくて済みます。この時期に至っても親が、幼児のころと同様の「子育て」介入をしていると、思春期の子供は二重の「子育て」を受けてしまいます。
親が子育てと証する介入をする理由は「子供のやることは危なっかしくて見ていられない」、「やることがいい加減でしっかりしていない」、「子供がやることは要領や手順が悪い」、「間違ったことをしているので、黙って見ていられない」などの理由からです。親のこのような発言は気持ちの焦りと不安の内在から出ています。自分の子供が健全な欲望を抱いているかどうか、社会参加機能を成長させて(豊かにして)いるかどうかという不信があります。子供にも完璧を求める親の悪い癖です。
親からの介入と自分育てという二重の「育て」があると、子供の心の成長に混乱を起こします。健全な欲望に基づき自己実現させたい自分育てと、親が求める親の理想に基づく子育てとは反発し合うのが普通です。
親世代の子供に対する理想と、子供文化(社会)の中で獲得した欲望に基づく子供の側の理想とは差異があって当然です。その差異を親が認めずに子供の欲望に抵抗すると、子供は親に強く反発します。
性成長期にある子供が「自分育て」を実行する時期に、親は子供とは別に親自身の「自分育て」をやり直す時期に差しかかります。そのことにより、親子関係は適切な距離を保つことができるのです。
6.親自身の自分育てとは
生まれ育ったきた親も、子供と同様に育つ存在です。子供の生活の面倒を見ること(育児)で精いっぱいになっていた時期から、いくぶん時間的な余裕ができた時には、親も育つ人間としての「本来の生きる意味」を再確認し、求めて生きなければなりません。子育てをしながら、親も育っていたはずですが、自己の成長にはかまっていられない時期があります。それは子供が思春期に至り、「気になる言動」が多くなってきた時期と一致します。この時期には親子関係の距離を適切に取る必要があります。近づき過ぎず、離れ過ぎずの関係です。子供が外部との関係をつくりやすくするのです。
子供は親の言動を綿密に観察しています。「親はいいなぁ。何の努力もしなくて威張っていられる」、「大人になると勉強もしないで楽をしていられる。それでいて文句だけはいう」、「あいつは何の趣味もなく、少しも成長しない」、「食事だっていつも決まりきったものばかりで、少しも進歩していない」など、細々と親の言動を観察しています。
確かに親が何かを学ぶような機会は少なくなります。学校を卒業してからも学び続ける人は稀です。せいぜい、お稽古事をやる程度です。それでも、しないよりはずっとましです。
子供は親たちが生きる意味の核となる、自分育て、自分づくりをしていないと思い込んでいます。それが「楽をしている親はいいなぁ」という気持ちにつながり「あんな親からは文句を言われたくない」ということになります。「学校の課題や役割分担(責任分担)は自分も適当にやり過ごして、早く大人(親)のように楽になろう」という怠惰な気持ちにさせます。
「生まれ出た生命は育つために存在し、育つための存在は生きる意味そのものである。自分育て、自分づくりは生きる意味で或る(高橋良臣)」という哲学的、生命学的な原則があります。それを台無しにする親たちの生活姿勢や日常的な態度は、子供の無気力や怠惰の引き金にもなります。自己成長に向けて不誠実な親たちの態度は、親子関係を悪化させます。
親たちの多くは、もともと自分の生活の中で自分育てをしているのですが「自分育てをしている」実感が得られない場合があります。毎日、決まりきったことばかりしているよな場合にはそのようになりがちです。生活そのものは総合的な人間教育でもあり、人間成長でもあります。
7.お互いに見て習う……ミーム・動物の行動学の言葉・模倣・物真似
不登校の子供たちと生活を共にしていて気付いたのは「見習う力を持っている子供は、成長が早い」ことです。「見習う力」は共に生活をしている場合、相手の生活文化で良いところを見習い、自分の生活に取り入れる力です。多くの子供は、相手に見習い、自分の生活向上の欲望を抱き、欲求を満たしていきます。ミームは自己の文化レベルアップを早めます。
ところが一部には「あの子と自分は違う」から「自分は見習う必要がない」と思い込んでいる子供もいます。「人は人、自分は自分という個性が必要だ」と思い込み、対人関係から得られる豊かさをも拒否してしまう子供がいます。それは一見いい態度に見えます。が、相手の良いところが分かっていたら、敢えて否定材料にする必要はありません。相手に見習わない人の悪い癖です。親や教師たちから「個性尊重の原則」を規則のように適用されてきた子供にこのようなタイプが多くいます。
見習うことは、物真似ではありません。相手の良いところを自分に取り入れて自分なりに機能化させて活用するのですから、「変容性内在化」に類することです(コフート)。その変容性内在化が起こらないということは、憂慮すべきことです。「対象関係が成り立ちにくい子供」なのです(コフート)。一緒に生活をしていても、相手に親しみを感じない人で自己中心的で激しい自己愛的な人なのです。共同生活をしていても、かかわりが出来にくい子供の場合、「見習う力」は弱いのです。
成長過程の子供の場合、かかわる人々から見習うことが多くあります。大人でも同様です。見習うためには、相手の言動を丁寧に観ていなければなりません。それができないのは強烈に自己中心か自己愛的なのです。
「自分のことだkでいつも精いっぱい」、「自分のことにしか関心が向けられない」、「自分はいつも間違っていない」、だから人から見習う必要はないという子供もいるのです。そういう子供は親の生活も観ていないから「親は何をしている人か分かりません」、「どんな考え方をしているのか分かりません」「どういう生き方をしているのかわかりません」などと言います。親にも見習うことをしていません。
人は周囲にいる人に見習い、お互いに成長する関係を作ることができます。親からの遺伝子だけで文化を受け継ぐ存在(生き物)ではありません。親からの遺伝子はひと世代かかります。しかし見習う文化は同世代や同時代に生きる人から見習うのですから、即時性があります(ドーキンス)。
不登校や引きこもりになっている人々には「見習う生活の場」が必要です。その人の「見習う姿勢」は相手との快い関係から生まれてきます。そのような生活の場をたくさん作っていく必要性を感じます。まずは、家庭から始めて下さい。そして、家庭外にもそのような場を作って下さい。
登校拒否文化医学研究所のホームページは下記から。