フリースペース To Be主催
登校拒否文化医療研究所の高橋所長の講演から(1)=3月17日・木=
フリースペースTo Be(代表・日本キリスト教団大曲教会の横井伸夫さん)主催の「子どもの自立を考える集い」がこのほど花園町の中央児童館で開かれた。講師の登校拒否文化医療研究所の高橋良臣所長は「過保護・過干渉」をテーマに講演を行った。2回にわたって詳細を掲載する。
【子どもの依存への対応】……過保護・過干渉から脱出
こどもが登校拒否になると親への依存が激しくなります。母親の後追いをする程度ならまだ、ましかもしれません。自分の心身と母親の心身との区別ができないくらいの状態(一体化・共生状態)になると依存の激しさはかなりのものになります。特別な用事がなくても、いつも母親が近くに居て、自分との関係が安定した状態でないと不機嫌になる場合もあります。
思春期にまで成長している子どもに対して、母親はその依存に対してどこまで付き合ったら良いか、どの程度満たしたらいいのかで迷います。毎度、ぐずられ、ごねられるのが嫌で、先回りして子どもから文句を言われないようにしてしまう母親もいます。それでも子どもはぐずります。
1.子どもは依存状態から成長していく
もともと子ども(幼児)は母親に依存しなければ生きていけない存在です。特に幼児期の母親依存は正常な依存です。この時期にできる母子関係も心の安定した依存対象自己感に積み重ねられます。
幼児にとっては外部で起こる出来事の多くは、不安の対象となります。その不安が自分の心の中に侵入してくる危険性を感じて母親にすがります。成長してくれば、外部で起こっている出来事に関して、自分の心の内部で処理を自己調整できるようになります。成長しても心に混乱が起こっている場合、このような自己調整はできにくくなります。
外部の出来事と自分の内部とが混乱している状態での依存は、後の思春期になってからの閉じこもり(引きこもり)の状態と似ています。外界で起こっている出来事に対して自己の内界は、外界の出来事に侵入されて混乱し、恐怖状態に陥ります。外で起こっている不安な出来事が心に侵入してくるという思いが強くなり、母親に付き添ってもらわないと何もできなくなってしまいます。母親が付き添わなければ不安は緊張や恐怖にまで高まります。緊張・恐怖しても母親の援助がなければ心身の疲労にまで進行します。疲労しても質が良い援助がなければ、子どもの心身は緊張、恐怖、疲労、萎縮を反復します。心身の萎縮に対するケアがなく、頻繁に緊張、恐怖、疲労、萎縮する出来事に遭遇すると子どもの心身は硬化していきます。
思春期には新しい心身の変化、環境の変化、関係の変化が起こります。不安、緊張、恐怖、疲労、萎縮、硬化は反復して子どもの心を襲います。この悪循環がパターン化すると子どもは恒常的に依存するようになります。
それは「自分の周りはいつも嫌なことばかり起こる」「誰も自分を相手にしてくれない」「誰も寄り添ってくれない」という思い込みです。
だからといって「それでは自分で頑張ってみよう」とはなりません。理由は「みんながそういう自分のことを否定する」「みんな批判はするだけで、誰も助けてくれない」「何をやっても疲れてしまい、もう駄目だ」「自分の心身なのに自分の思う通りに動かない」状態が起こっているからです。「こだわり」は心の「硬化」の表れです。「硬化」は心の融通のきかなさ、身体の柔軟性の欠如(肩凝りなど)と同じです。
親(母親に限らず父親も)は子どもが依存してくr影に潜む現実を的確に捕らえておく必要があります。子ども社会(関係とか環境とか身体の急激な変化)から受ける重圧の数々が子どもの心身に不具合を起こします。
その時、親たちはこの不具合現象を引き起こしている子どもにどのような依存が起こるのか分かっていれば援助しやすくなります。
2.子どもの幼児戻りの程度に応じたかかわり
実際に起こっている依存、幼児戻り、退行は、その年齢にふさわしい程度の愛情を求めるサインです。また自己再形成のための作業です。
a.「お母さん、ダッコ」なら欲求を満たすために、まだ母親の温もりが必要な状態です。心の崩れはかなり根源的な部分にまで及んでいます。しかし、親が先回りして親の方から「抱っこしてあげる」は後々まずいことになります。受け身で十分です。
b.母親の持ち物(あるいは代用品)がないと子どもの気持ちが落ち着かない状態は、子どもの心身と母親の心身の区別が十分にはできていない状態を示します。例えば「癖になる」として子どもが大切にしているタオルや縫いぐるみなどを強制的に取り上げると、後に安定した対象関係が失われます。怖いお母さん、悪いお母さん、だけが心にこびりつきます。部分的自己対象関係から先には進みません。
c.母親に限らず誰彼かまわず女性いんベタベタする状態なら心の情緒的な充足を必要としている時期です(これはフリースクールなどに来る児童・生徒の中にもいる)。母親から離れて、別の世界へのアプローチをしますが、まだ母親的な対象を求めています。相手が他人だからといって「遠慮しなさい」という命令は心の空洞を作ります。
d.いつも母親に対して同じ状態を反復して強く求める状態なら心の自己対象を母親に求めている証拠です。これから新世界に旅立つにあたり、母子の安定した関係を作り、恒常的な心の安定を築こうというものです。「あなたはしつこい」では恒常的自己対象関係はできません。
e.幼児のように同じ遊びばかりを反復してやることにも意味があります。楽しい快い遊びを反復することで、心に恒常的な快適さを形成します。快適神経伝達システムの構築にもつながります。快い恒常的自己対象関係とは外界で起こっている出来事を、自己内界に取り込むための作業です。「同じことばかりやってないで他のこともやりなさい」は大きなお世話になります。
3.過干渉・過保護から援助へ
前項でも述べたが、常識で制限したり先回りすることは禁物です。子どもの依存状態、退行状態、幼児戻り状態がどのようなものであるかを専門家と検討して、かかわりについて模索する必要があります。その状態がその子どもにとってa.健全な依存状態なのかb.健全な共生状態なのかc.母親から離れるための前段階として必要な外部依存なのかd.自己形成のための現実的な反復試行なのかf.全体的自己対象関係形成の(情緒的な自己対象を獲得する)ためのしつこさなのか、検討しなければなりません。
親は子どもの現実を無視し「とにかく不自由させない」ようにしてしまうことは間違いです。子どもは「少し不自由」なくらいがちょうど良いのです。子どもがそこそこ満足できていれば、あとの不足している部分は自分で処理できる程度が、親にできるふさわしい援助です。ところが世話焼きや子どもから嫌われたくない親はよかれと思うことは、すべてやっていまいます。これは子どもの心身の成長にとっては良くないことです。仮にふさわしい援助が技術的にできていても、言葉のやり取りがうまくできていなければ、まずい結果になる場合もあります。対話は必要です。
【過干渉とは】……自覚できない親・教師のために
過干渉とは子どもが本来やるべきことで、その子どもにできることでも、親や教師が代わりにやり遂げてしまうことです。この場合、子どもは確かに楽をしますが、本人の心身の成長や感性の成長にはつながりにくくなります。多くの場合、過干渉に走る親・教師たちは「こんなことは子どもがしなくてもいい」という安易な気持ちから行っているようです。子どもがやることの全てとは言いませんが、多くは無駄にはならないのですが「早くいい方向へ向かわせたい」親や教師は余計なお世話、大きなお世話を焼いてしまいます。
1.子どもに嫌われたくない
子どもに嫌われたい親・教師はいません。子どもから嫌われたくないという思いから、子どもが嫌がるようなことは一切、要求しない、やらせないという大人も少なからずいます。子どもが嫌がることは全て大人が代わりにやれば表向きは「それで済む」という人々です。たとえ子どもが遊んでいても大人が子どものやるべきことを全てやり遂げてしまうことで、子どもはますます楽な生活を求めるようになります。嫌なことは全て避けて回る生き方をするようになることは容易に想像できます。
一般的にこのように子どもに成り代わって、本来子どもがやるべきことを大人がやり遂げてしまう人々の中には「子どもの頃、大人から嫌なことをやらされて辛かった」という強烈な思いを持っている人がいます。
本来は「辛かったけど嫌なことにも取り組む力が生まれた」という善意の解釈ができるはずなのですが、その人の周囲には、その人がやった嫌なことにも取り組む姿勢を褒める人がいなかったのでしょう。
仮に子どもが嫌がることの多くを大人が代わりにやり遂げてしまったら、子どもの経験不足は間違いなく大きくなります。その間に遊んでいたから経験不足は起きないという考え方もありますが、嫌なことへの取り組む力は生まれません。遊びが必要なことは認めます。平行して子どもが役割上の責任も負わなければならないことは、社会参加していく上では避けられない要因です。子どもにとって生活を営む上で、少し負担な役割上の責任回避が起こると、その子どもはその生活の場も回避しなければならなくなります。
「掃除を子どもにやらせるような学校へは通えない」「給食の配膳をしなければならない学校には行けない」「鳥の世話をしなければならない学校には行かない」ことになりかねません。掃除、配膳、鳥の世話などは確かに面倒なことです。しかし、ほとんどの子どもにはできることです。その役割を回避するようになると子どもは学校生活から離れることになります。その間に類する生産性がある有意義なことでもしていればまだしも、遊んでいたとか好きな教科の学習をしていたのでは、ただ単に好きなことだけをしていたにすぎません。そんなことは誰にでもできます。少しくらい嫌なことにも取り組む力は、将来の社会参加のためには必要不可欠です。
大きなお世話焼きの人の介入があれば、子どもは将来の社会参加の力の一部を獲得できないままに年齢だけ食っていきます。しかもその人が「子どもには嫌われたくない」との思いで世話役介入をしていたとしたら、子どもの側は自分に代わって役割を負担してくれない人は「悪い人」として決めつけるようになります。「宿題を出さない先生は良い先生」「宿題を出す先生は悪い先生」といった事態を生みます。その年齢にとって、その子どもにとって負担過ぎる宿題は確かにやり遂げるのに無理があります。そういう問題外のレベルではなく、一般常識で子どもに対する過干渉や過保護が「子どもから嫌われないため」に行われているとしたら、子どもの健全な社会的成長は停滞します。
2.待ちきれないから代わりにやる(先に言う)
子どもは楽しいことを優先させます。嫌なことは後回しにします。反対に嫌なこと、困難なことは先に片づけて、あとから楽しいことをやる子どもも中にはいます。どちらの場合でも子どもがその課題に手を付ける(取り組む)までの時間を苦痛に感じる親や教師はいます。子どもの自主的な取り組みを待ちきれずに口出しし、手出しをする人です。
たいがい子どもは子どもなりの時間組みの中で、何をやるかを心の内に決めています。それが現実的であろうとなかろうと子どもは心づもりしています。しかし、外から見ている大人には子どものそのような心づもりが見えません。そして「早くしなさい」「いつまでぐずぐずしているのッ」という言葉を出してしまいます。子どもは「今やろうと思っていたのに」「うるさいッ(最近は「うざいんだよッ」と言うらしい)」と応酬し「もうやらないッ」とヘソを曲げます。過干渉による停滞が起こります。結果的にいつまでも子どもがぐずぐず言っていると、ついに親は子どもの代わりに全てをやらざるを得なくなります。「いつもこうなんだから」と言う親に「せっかくやろうと思っていたのに、お前に言われたからやる気がなくなったんだよッ」と詭弁をろうするようになります。
実際に気持ちよく物事に取り組めなくなっただけなのですが、子どもの心にはそれだけでは我慢できない不満がいぶります。これが不登校の子どもたちのように不安が強くて、本当にエネルギーがうまく起動しない状態なら「やってもらって助かった」になるのですが……。親たちの先回りは親子関係の不全という思わぬ弊害を子どもにもたらします。
3.そこそこの援助で十分
子どもは初めての体験には緊張します。自主性を尊重するという理由で「好きなようにやっていいよ」では、どこから始めればいいのか、手順はどうしたらいいのか分かりません。総不安傾向が強い(損害回避傾向が強い)子どもには本人が納得できるような説明が必要です。用心深い子どもには十分な時間が必要です。融通が利かない子どもには「基本が出来ればそれでもいいのだ」ということを事前に知らせておく必要があります。その子どもにとって安心できるような説明はいつでも必要です。
しかし、物事に取り組む途中で、停滞が起こったり食い違いが起こる可能性は十分にあります。その時に黙って見ているだけではいけません。「どうしよう。どれくらいなら(どの辺から)できるの?」という確認が必要です。子どもができる部分は残しておかなければなりません。援助者には適切な手抜きとか隙間がなければいけません。手抜きとか隙間というのは、完全ではない部分のことです。完全に援助しきってしまい、子どもに何もしないで済む状態をつくることは避けなければなりません。早く終わらせるのだけが良いのではありません。子どもの心身の成長発達のためには、大人たちの援助は「そこそこ子どもが満足(理解)する程度」で十分です。大人の支援に適切な手抜きや隙間の部分があれば、子どもは自分の力で埋めていきます。それが子どもの心身の成長につながります。
登校拒否文化医学研究所のホームページは下記から。