子どもの自立を考える集い

フリースペース To Be主催

登校拒否文化医療研究所の高橋所長の講演から(2)=3月18日・金=

 フリースペースTo Be(代表・日本キリスト教団大曲教会の横井伸夫さん)主催の「子どもの自立を考える集い」がこのほど花園町の中央児童館で開かれた。講師の登校拒否文化医療研究所の高橋良臣所長は「過保護・過干渉」をテーマに講演を行った。2回にわたって詳細を掲載する。

【変質する親密感】

  手間ひまかけずに日常生活ができるようになり、性役割の分担が原則的にしろ家庭内に持ち込まれて以来、家族間における親密性が薄れてきつつあります。言い換えれば、一人で自分の時間を過ごす生活スタイルが「余裕」とか「ゆとり」であるかのようにいわれる時代になってきました。

  相手が親友であれ恋人であれ家族であれ居場所と時間の共有は親密感を生む基になります。反対に一般的には一人でいる時間が多ければ多いほど相手に対する親密感は薄れていきます。

  日常生活を送る上で、電化製品が大いに役立つ時代です。便利にはなりましたが、その代わり共同作業などの家族の出番は減少します。子どもはゲームやテレビやマンガやパソコンに夢中になれる時間が多くなります。子どもが台所に来てもほとんど手伝う場面は生まれません。狭い台所なら、かえって家事の邪魔になり兼ねません。子どもは結局、一人で過ごす羽目になります。一方で親は一人で家事をすることになります。

  食事についても家族だから一緒の食卓につくとは限らない状態にあります。通勤時間が長かったり勤務時間が長い場合、父親の帰宅を待たずに食事をします。家族とはいえ個人の都合に合わせた食事となり、共に食卓を囲む機会は減少しています。

  このような状況から家族の親密感は薄れるばかりです。家庭内で親密感獲得のトレーニングが行われないままに、子どもは社会参加していきます。

  1.親しくなれない人々
  たいがい人は自分に対して優しい人、眼差しを向けてくれる人、憧れる人に近づこうとします。そこには好意や愛情や尊敬という感情と、援助や依存や親しみたい(近づきたい)という行為がついて回ります。

  不登校・引きこもりの人々の場合、この関連が崩れつつあります。不登校・引きこもりの人々以外でも同様に崩れつつあります。

  家庭内での親密感獲得のトレーニングが未完成だからという理由だけではないのですが、子ども社会でもお互いに関わり合う体験の不足が起こっています。相手のペースやリズムに合わせる力が弱いのです。それは子どもたちが社会参加する前の段階で「他者に合わせる力の獲得」を実現していないからです。この場合の他者とは親たちや兄弟姉妹たちです。

  家庭内で親密感に接する恩恵に預かっていない場合、社会での複数の他者との親密感を形成するのに苦労するはずです。複数の人々が時間と居場所を共有することに息苦しさを感じたり、煩わしさを感じる人の方が多くなります。家庭内で一人の時間と空間に慣れている場合、複数の人々がいる社会的時間と空間では、相手が家族ではないというだけで、余計に神経を遣うことでしょう。

講師の高橋さん(左)と横井牧師相手に対する親密感の獲得どころではなく、むしろ煩わしさ、苦痛などが拒否的行動を伴ってあらわになってきます。お互いが相手に対して嫌悪したり不安を感じたり場合によれば恐怖まで感じていたのでは親密感どころか拒否行動や回避行動が強くなるはずです。周囲の状況が悪ければ、あるいは追い詰められれば、相手に対して攻撃的になる時もあるはずです。これらのどの一つとっても親密感とは結び付きません。このような攻撃性は親密感の欠如から生まれてきます。

  2.なじまない日常性
  不登校・引きこもりの人々と共同生活をしていて実感することは一人ひとりが「それぞれにペースが違い過ぎる」ということです。食事する場合でも、極端に早いペースで食事を終わらせる子どももいるし、極端にゆっくり食事を摂る子どももいます。その差は例えば昼食で30分ほどです。夕食になると40分程度の差は生じてきます。普通、昼食に費やす時間は例えば給食で15分とか20分です。ところが5分くらいで食べ終わる子どもと、45分とか50分かかる子どもといるのです。ものすごい早さとものすごい遅さです。彼らにとっては「普通の子たち」や「家族たち」とペースを合わせることは大変なのです。

  ほとんどの子どもたちが家庭内においても「一人の時間」と「一人の居場所」をたくさん持っていました。したがって家族ともペースやリズムを遭わさなくても済む生活をしていました。そのようになった背景として理由に挙げられるのは「テレビ、ゲーム、マンガ、パソコンなどへの過剰な依存傾向」です。なぜか「家族で触れ合う機会が少なかった」とか「家族と語り合う時間が持てなかった」という話は出てきません。本当はここが肝心だと私は思います。日常生活が家族で共有できなかった背景はお互いに一人の時間を持ち過ぎたからではないでしょうか。日常生活の作業を共に行う場面が少なかったからではないでしょうか。体験が少なければ子どもの心には日常性が経験として構成されにくいのです。

  子どもと話をしようとしても「ゲームから離れなかった」「テレビに釘付け」「マンガに夢中」なのは、その時には既に子どもの日常の相手が親(人)ではなく、ゲーム等(機械や器具やモノ)になっていたからです。

  3.日常性の回復と人への親しみ
  不登校・引きこもりの人々の日常性の回復の前提には人との親密感の獲得が必要です。親密感という感覚がほとんどない人にも自尊心はあります。自己嫌悪感や不安感、恐怖心や劣等感が強い人でも自尊心はあります。生きている人はたいがい心のどこかに自尊感情を抱いています。それは日常あまり意識されない場合もあります。

  誰でも自分が行った行為を褒めてくれる人には好意を抱きます。自分が特別な行為をしていない場合でも、自分の存在だけを大切にしてくれる人にも好意を抱きます。自分に対して適切な援助をしてくれる人には、当然好意を抱きます。自分を慕って自分を便りにして来る人にも好意を抱きます。いずれの場合も快く嬉しい感情が生まれます。

  不登校・引きこもりの人々の多くは、好意を抱いたり抱かせてもらうような、この嬉しさを体験していません。嬉しさ、喜び、楽しさは全て快さです。快い体験が少ない傾向は大切な周囲の人々と日常生活体験を共有しなかったことから生まれます。家庭では親たちが学校では教師たちが中心に展開する日常生活が楽しく快いものであれば、子どもは日常生活に馴染みます。子どもは親や教師に親密感を抱き近づきます。その際、子どもを厳しく育てなければ自立はしないという観念は邪魔者です。子どもにも自尊心があるこtを認めて下さい。子どもが相手に親密感を抱き、うまく依存し、頼りにし、相手にも頼りにされ依存される関係が本来の社会的な上手な自立です。子どもの心に自尊感情があることを確信して、子どもの気持ちに寄り添いながら子どもと共に快さを体験し、かかわって下さい。

【薄い印象の対人関係・対象関係】……人間に関する興味や関心の薄さ

  登校拒否・不登校や引きこもりの特徴で気付いたことがあります。彼らの多くは相手となっている人を自分の目で見ていません。相手と交わす言葉数も少なめです。相手の言葉にも十分、耳を傾けている様子はありません。したがって相手が去った後にその人の印象を聞いてもほとんど記憶に残していません。「服装は?身長は?髪型は?声の調子は?話の内容は?」などと聞いても答えられる中身は少なく「ほとんど覚えていない」のです。「相手に不安を感じていたからよく観ることができなかった」り「相手にどう思われるか分からないから喋らなかった」り「早くこの場から逃れたい気持ちで十分に話を聴く余裕がなかった」りの状態でいます。これでは対人関係も満足には持てません。したがって自分の心に相手の印象を刻み込み相手の影響を心に受けるような状態も起こりません。

  1.相手を知りたいという欲望
  人はたいがい初めて会う人には緊張します。そうはいっても初めて会った時には、その人を良く観察して、今後もその人には緊張するかどうか確認します。そして、相手と関わり続けたいと感じた場合、相手との関係で緊張しなくても済むような関わり方を工夫します。その場合、自分の心に起こる不安を解消する方向で意図的に関係づくりをしていきます。

  相手に向けられる興味や関心が強ければ、自己内部の不安を押し退けて、相手への観察を実現させます。そのことで多くの情報を相手から獲得します。ひと言でいえばこれは「相手を知りたい」という欲望の実現です。

  それは怖いもの見たさでもあり、不安の解消のためでもあり、相手と関わりたいという欲望を満たすためでもあります。

  ところが登校拒否や閉じこもりの人々の多くには、かつての対人関係の体験で相手が自分の心に侵入してきた時に、侵入を防ぎきれなかったという苦い体験があります。人はいつも自分の心に侵入してきて、嫌な思いをつくる存在であるという強い固執が一種の心の傷(トラウマ)のようにあります。そのような体験が心に残っていると、相手から自分を守るのに全力を注ぎます。その心の傷の影響で相手を観察する余裕(気持ち・協調性)はなかなか持てません。その苦い体験が彼らの心の傷として残っていて、心の構造が断片化しているからです。

  相手に興味や関心を持つよりも前に、対人関係という苦い思いがある嫌な関わりを避けたい損害回避傾向が強くなります。

  この傾向は彼らの対人関係の進展の妨げになります。それは同時に心の成長の妨げにもなります。いつまでも中学生の時のような遊び相手との関係のままでいたり、少し進展して遊び仲間のような関係であったりします。が、そこから先の共同作業仲間や同性で同世代との親密な対人関係にまでにはなかなか進みません。友だち関係が幼いままなのです。

  2.関わりたいという欲望が生まれない
  ほとんどの登校拒否・閉じこもりの人々が対人関係の構築で、出端をくじかれているので、なかなか関係改善は進展しません。過去のこりごりとした体験のこだわりによって、相手に興味や関心を持てなくなります。

  そのような人々にも、自分を大切にしたいという欲望はあります。表向きは「もうどうなってもいい」と言いつつも、自殺にまで至る登校拒否や閉じこもりの人は極めて少数です。自分を守りたいという欲望へ向かう場合があります。そうなると周囲の人々には自己愛だけが目につきます。自分を大切にしたいという健全な方向に進めば、もう少し自分の社会生活の足しになる方向へ進みますが、彼らの多くはそうはしません。

  見方によっては、自己愛性パーソナリティ障害に近い状態に陥っていることが分かります。私の今日までの関わりで言えば、彼らのこのような自己愛的な特徴は「見ていない」「聴いていない」「語っていない」状態から起こってくる二次的な不安の自己内閉塞反応に思われます。観ていない相手が不安対象になっています。

  自分の目で相手を観る勇気、自分の耳で相手の言葉を聴く努力、自分の心の中を語るためのまとめる力、これらの全てにおいて停滞している可能性があります。そうなると自分以外は信じられないし、他の人を知る必要もない状態に孤立していきます。当然社会的な日常性は崩れ、社会生活にも行き詰まります。この状態は誰にとっても好ましいものではありません。しかし、他人に興味や関心が持てないのだから仕方がないといって結論をつけて済ますわけにはいきません。

  3.自己修正しにくい人への援助
  相手に対する薄い印象しか残らないのは彼らの対人関係の歪みから起こってきたことです。それなら次の年齢で起こる出来事を利用して印象深く、親しみ深く修正することは可能です。しかし当事者である登校拒否や閉じこもりの人々は前項でも触れましたが、「これだから仕方がない」という結論を強く確信していて、それがこだわりのように心にこびりついて、次の年齢での修正の邪魔をします。対人関係が停滞しているのだからそのような事態に陥ることもあり得るのですが、こだわっている人々は「観ない」「聴かない」「表現しない」の悪循環を繰り返していることこそが問題であるという認識をしません。

  「朝、起きられないから仕方がない」「夜、眠れないのだから仕方ない」「ゲームを取り去ったら他に何もやることがないのだから仕方がない」といった具合に、ほとんどが思い込みで自分自身で結論づけています。

  彼らの多くは基本的な人間生活の大切な部分に対する認識が欠けています。まず第一は食事を健全に摂ることです。食生活は生きていく上では基本ですが、ほとんどの子どもの場合、食生活が杜撰になっていきます。二つ目は健全な日常生活には時間の区切りがあり、我々は多彩な一日を送ることができるという認識です。自分で自分の生活時間に区切りをつける力は学校教育の時間割で練習しています。しかし、時間割にはどんな意味があるのかの説明抜きに行われているために、多くの子どもは家に帰ると、区切りのない時間を過ごすことになります。三つ目は社会的に居場所を幾つか持っていることの重要性です。寛ぎは家庭で、学びや仕事は学校や職場で、レジャーは公園や海で……といった具合です。それができなくなると閉塞空間に居続けることになります。

  この三つの大切な部分を意識して関わることができる人が必要になります。関わり方はその人の現状の気持ちに寄り添いながらでなければ意味がありません。「仕方ない」で簡単にあきらめている人が関心を持てるような関わりは必ず見つかります。高いプライドに視点を合わせて下さい。その人のよい所を見つけて関わって下さい。

  登校拒否文化医学研究所のホームページは下記から。

http://www.asahi-net.or.jp/~pr8y-tkhs/index.htm