大曲古文書解読研究会

県の専門員を講師に定例研究会

赤穂浪士、桜田門外の変などを解読(2月14日・火)
 
 

  大仙市の大曲古文書解読研究会(野藤鳳山会長)の定例研究会は13日、大曲図書館で開かれ、秋田藩重臣が日記に残した「赤穂浪士事件」や「大塩平八郎の乱」など日本史上の大事件に関する解読勉強をした。

  同研究会の会員は19人。定例の研究会は年3回開き、うち2回は会員が共同で解読に当たり、1回は専門員を講師に招いて勉強している。そして年1回は研修旅行も行っている。

  この日は男性8人と女性5人が参加。講師として県公文書館古文書班の主任専門員兼班長の菊池保男さんが招かれた。菊池さんは佐竹家家老を務めた岡本又太郎元朝、佐竹家御相手番の渋江和光、それに家老の宇都宮四郎孟綱の3人の日記を資料に解読した。

  岡本は元禄15年(1702年)にあった「赤穂事件」を日記に残している。「元禄15年12月23日、会所にまかり出ると去る15日に江戸から出た飛脚便が届いている」と江戸であった赤穂浪士の討ち入りの第一報を記している。

  江戸城であった吉良上野介と浅野内匠頭との刃傷については「去去年、吉良上野介殿高家の衆においてお城で浅野内匠殿と出入りして内匠殿、小刀にて上野殿を手負わせ候。殿中のことに候。内匠殿、則切腹仰(おお)せつけられ候。上野殿隠居とあいみえ候」と記すだけだった。そして内匠殿の家来は上野介殿を「主人の的に候と存じ入れ、狙い候」とし、「今月14日夜、吉良の子息・左兵衛殿の屋敷中へ忍び入り、人数14、5人にて上野介殿を討ちとめ、子息・左兵衛殿を手負わせ、その外、家人どもを討ち候て」と討ち入り成功を淡々と記している。

  ただ飛脚での第一報だったため、情報は不正確で討ち入ったのは47士ではなく14、5人とある。また15日に江戸を出た飛脚は9日間かかって秋田に着いたことになる。

  一方、天保7年(1837年)、大坂町奉行所元与力の大塩平八郎が、「救民」を旗印に大坂市中(当時は大阪ではなく、大坂だった)で起こした挙兵事件では家老の渋江が、幕府から寄せられた「お触書」を天保8年3月22日の日記に残している。

  大塩父子は事件の後、その行方が分からず、幕府は全国に触書を回して手配。大塩についての人相書きでは年齢45、6歳。顔細く、色白き方、眉毛細く、薄き方、額開き、月代(さかやき)青き方などと特徴を詳細に書き、「見聞き候」の場合は大坂町奉行所へ早々に届けるよう申し伝えている。

  安政7年(1860年)3月17日に記された宇都宮日記には「安政の大獄」で恨みを買い、江戸桜田門外で水戸・薩摩浪士らに襲われ殺害された大老・井伊直弼の「桜田門外の変」もあった。井伊公は「短筒」で打たれ、さらには乗っていた駕籠(かご)ごと刀で刺されたため「ご存命ところのこれなく様子」と死を伝え、「前代未聞の珍事。公辺(公儀)を恐れざる致し方。恐れ入り候。天下の形勢もいかがと薄氷を踏む思いにこれあり候なり」と殺伐とした時代の到来を嘆く。

  講師の菊池さんは3人の日記を1行、1行、解読しては朗読。受講者はその古文書のコピーを目で負いながら、菊池さんの読み上げる言葉を熱心に写し取っていた。時には菊池さんも解読できない文字もあって、ベテラン会員と一緒になって前後の文書を照らし合わせながら訳していた。

  この日、資料として提供された岡本ら3人の日記はいずれも流れるような文字で、誰が見ても達筆。しかし、「赤穂事件」を記したものでも読める文字はほとんどなく、たまに「自分」とか「浅野内匠」「殿中」「立ち退き」「飛脚」などチラホラ判読できる程度。

  菊池さんは「古文書解読の面白さは刊行され、活字化された書物では出会えない地方の生の歴史と出会えることです」と話す。そして野藤会長も「古文書は難しいと思わず、私たち仲間と一緒になって勉強し、文字に触れているうちに自然に読めるようになります」と入会を熱心に勧めた。