3405柱の犠牲者
遺族ら哀悼の意を表し、平和を祈る(7月12日・水)
大仙市戦没者追悼式が12日午前11時から、大曲中央公民館で挙行された。大仙市遺族連合会の主催で、大仙市が誕生して初めての合同追悼式となった。
同市8地域の戦没者は3405柱となっている。日清、日露、そして太平洋戦争での犠牲者で、遺族会員は1900人。この日は、栗林次美市長をはじめ市議ら来賓35人と遺族290人が参列。遺族はそれぞれの総合支所が手配した市のバスで会場に入った。
祭壇は白と黄色の菊で飾られ、中央に「戦没者霊位」が建てられた。黙とうの後、品川隆美遺族会連合会長(大曲西根)は「苛烈(かれつ)を極めた大戦が終結し、61年の歳月が流れた。戦争を知らない世代が大多数を占め、悲惨な戦争体験の傷跡も薄れつつある中で、私たちは平和と繁栄の恩恵を享受している」と感謝の言葉を述べ、「皆さまの犠牲の上になされたこの平和の尊さ、ありがたさを改めて認識し、哀悼の思いをささげたい」と式辞。
また、栗林次美市長は「皆さまは遠く離れた戦地で祖国を思い、残された家族を案じながら無念にも尊い命を散華された。ご遺族の深い悲しみを拝察すると痛恨極まりない」と哀悼の言葉を述べ、「世界の平和のため全力を尽くすことが私たちに課せられた責務だ」と平和への誓いを新たにした。
戦没者の遺族も多くは高齢化し、妻だった人は少なくなり、戦没者の弟や子ども、そして孫、甥や姪の時代となった。9つ違いの兄を戦地で亡くしたという品川会長も現在は74歳。太平洋戦争が最も苛烈となった1943年(昭和18年)12月、県庁職員だった品川家の長男は「秋田17連隊」の召集を受け、満州からフィリピンのルソン島へと派兵され、そこで戦死した。23歳だった。
「自分が11歳の時だった。遺品として戻ってきた骨箱に入っていたのは兄の名前を書いた紙と頭髪、ツメだけだった。悲しんだ母の顔が焼きついて今も忘れられない」と話した。
佐藤孝次副議長の追悼の言葉を最後に全員が霊位に向かって白い菊の花を献花し、追悼した。そしてそれぞれの地区ごとに分かれて、昼食会を開いて故人を偲んだ。