懐かしのモールス信号
かつての電信士が語り合う(3月30日・木)
| かつての郵便局で電信係として活躍したOBたち。 | 佐藤さんの電鍵を打つ腕前は昔と変わってない。 |
大仙市神宮寺の「かみおか嶽雄館」で30日、郵便局の電信係として活躍したモールス通信OBの会があった。同市神宮寺字蓮沼の佐藤慶治さん(80)がかつての仲間に呼びかけたもので、大曲須和町の藤原貞治さん(77)、花館上町の藤井輝さん(73)、大曲幸町の佐藤章美さん(70)、角間川町西中上町の吉田三男さん(74)の4人が集まって、〃昔操(と)った杵柄〃でもあるモールス信号の「電鍵」を打った。
モールス信号は「トン」「ツー」の符号を組み合せて文字にした電信文で、1837年にアメリカのモールスが発明した。電磁石を使って電流を切ったり、流したりする際に発する「トン」「ツー」の音から「言葉」の符号を発案し、電報で言葉のやり取りを出来るようにした。
1854年にアメリカのペリーが黒船に乗って初めて日本に持ってきた。そして1912年のタイタニック号の遭難事件では遭難信号である「SOS」が無線で打たれた。また太平洋戦争の幕開けとなった「真珠湾奇襲作戦」の成功を伝える「トラトラトラ」の打電など戦場での連絡や作戦指揮にも使われ、大活躍した。
佐藤さんは第2次世界大戦の始まった翌年の1942年、仙台の逓信講習所に入学。1年間、モールス信号を学び、秋田市の土崎郵便局勤務となった。そして電信員として電報を打ち、1983年に神宮寺郵便局を最後に退職。その後、旧神岡町議として2004年まで5期20年間、務めた。
モールス信号を使った電報は戦後、電話の急速な普及で次第に使われなくなり、大曲郵便局でも1956年に廃止されている。佐藤さんは郵便局を辞める前、「モールス信号は自分の分身のようなもの」と買い求め、大切に保存。信号を打つ電鍵は右手の親指と人指し指、中指を使って軽く握り、「ツー・トン」の長短の音で文字を打つことから老け防止にもなると折りを見ては現役時代を思い出しながら打ってきた。
大曲郵便局からそのモールス信号がなくなってもう50年にもなることから、もう一度かつての仲間と会ってみたいと佐藤さんは、今回のOBの会の集まりを呼びかけることにした。しかし、消息を尋ねたら多くの人が亡くなっていたり、健康を害している状態だった。このため身近にいる仲間だけでOB会を開こうとなった。
嶽雄館に集まった藤原さんら4人は佐藤さんが用意していた「モールス信号機」を目にすると懐かしそうに「やあ、やあ。これだ。これだよ」と歓声を挙げた。そして「昔はこれを打つだけで言葉になった。トン、ツーの長短で相手が何を言っているのか言葉として伝わり、受けたものだった。しかし、受ける相手が下手だと仕事もはかどらないものだから、トン、ツーで『このヘボ』、『別の電信士と代われ』と打って怒鳴ったものだった」と話した。
一方、郵便局に駆けつけて電報を打ってもらう客の方も電報は「字数」で料金が決まっており、「10文字」までが基本料金で、5文字増すごとに割増料金がかかるため、いかに短い文章にするかを工夫する。
例えば「4ヒ(日)アサ センダイニテアイタシ デンワタノム」と打ったり「フミミタアイタシ3ヒ1105ハクツルニテウエノツクカクボウセイフク」の電文となる。日を「ヒ」と打ったのは一文字を少なくするためだ。またフミミタは「手紙を見た」であり、「3ヒ1105ハクルツニテウエノツク」は「3日午前11時5分、白鳥号で上野駅に着く」。「カクボウセイフク」は「自分は大学の角帽と制服姿で待っている」とのことだ。
この日参加した吉田さんは山形中央郵便局長で退職した。その吉田さんが戦後間もないころ角間川郵便局に勤務していた時、忘れられない電文を打ったことがある。「ケイハイツ ニマエタム ビンモコ」だ。余りに不思議な電文で、それを依頼した人に意味を尋ねたら、当時の「後三年(現美郷町)」にあった「草競馬場」の「競馬の日はいつだ」と尋ね、「ニマエタム」は「入場券2枚頼む」であり「ビンモコ」は「酒の一升瓶も持って来い」の意味だったという。「事前に相手と打ち合わせしていたから通じた電文だったと思うが、良く考えたものだ」と笑った。
佐藤さんはこの日のため入学した仙台の逓信講習所のアルバムも持参してきた。逓信講習所ではモールス符号を学ぶだけでなく、国語、理科、英語、国史、数学もあり、さらに弓道や剣道、体操もあった。授業も訓練も今では想像もつかないほど厳しく、ノイロゼーになる人もいたほどだったという。
卒業して郵便局勤務になっても電文を打つスピードを求められ、1分間で80文字を送るのが基本とされた。そして1級から3級まで階級もあり、級によって手当も違うため、みんな一生懸命に練習を繰り返したものだという。佐藤さんたちは懐かしいモールス信号機で一人ひとりかつての感触を楽しんだ後、「嶽の湯」に浸かって思い出を語り合った。