大仙市花館の会、北方風土社
歴史研究家・神宮氏を招いて合同の研究会(1月12日・金)
大仙市花館公民館で12日、「数奇な運命を仏道に生きられた、阿證上人の物語─出生は父義重の花館鷹野行きか─」と題した歴史講演会があった。阿證上人(1610─56年)は、初代秋田藩主・佐竹義宣の跡継ぎとして10歳で兄・義宣の養子に迎えられたものの義宣の不興を買って廃嫡となり、その後は京都で出家、芳揚軒阿證(ほうようけんあしょう)と称して、仁和寺塔中の廃寺「尊寿院」を再興、45歳で亡くなった。しかし、19年経って法印号が贈られ、さらに99年後には上人号が追贈され、名僧としてその名を歴史に残した。母は神宮寺の細谷家とされている。昨年6月には秋田市千秋公園の八幡神社から阿證上人の甲冑を着込んだ肖像画が発見されたと報道され、話題にもなった。
阿證上人を語ったのは神宮寺出身で、現在は横浜市在住の神宮滋さん(65)。神谷さんは中央の産業団体に勤務しながら、郷土史研究家だった父の遺志を継いで歴史と神仏論を研究、昨年6月には「秋田領民漂流物語─鎖国下に異国を見た男たち」(無明舎)を発行したほか、多くの歴史論文を発表している。
講演会は「花館の会(石河榮一会長)」と「北方風土社(森本彌吉代表)」の共催で、「新年合同研究会」として開いたもので、35人が神谷さんの講演に耳を傾けた。
神宮さんは阿證上人は義宣の父で、関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602年)、常陸から秋田に国替えされ、六郷城主となった義重の5男として生れたと紹介。その義重は玉川と雄物川の合流点にある伊豆山の麓や神宮寺で鷹狩りし、接待を受けた細谷助平衛氏の某女(なにがし娘)を見初め側室とし、義継(後の阿證上人)を生んだとその流れを語った。その義継は幼くして佐竹北家への養子となり、さらに長兄の義宣に実子がないため、元和7年(1621年)、40歳違いの兄の元へと養子となる。江戸屋敷では侍29人、台所役11人、馬添い5人、小人9人など大勢の配下に取り囲まれる生活だったという。
しかし、15歳になった寛永3年(1626年)3月20日、招かれた江戸城本丸で能を見学している際、義継は眠ってしまう。これに気づいた伊達政宗が義父の義宣に教えたため、義宣は面目を失ったとしてその翌日には義継を勘当し、江戸から引き上げさせた。そして久保田城下の一乗院に預けられたが、義継は希望して出家の道を選んで京都へと向かったという。
神宮さんは「これまでの研究で阿證上人が仁和寺に再興した尊寿院の現状を確認し、さらに昨年8月には京都市右京区の律宗大本山金剛院裏山にあった上人の墓もようやく突き止め、その法要回向もした」などと報告。墓は高さ2メートル余りある白御影石で、「明暦2年(1656年) 阿闍梨阿證 閏4月8日」などの文字が刻まれてあったとその写真も披露した。
また、上人の残した「霰(あられ)ふるさえぬる夜にも如何ばかり 冬を忘るる国の衾(ふすまに)」などの和歌も紹介。神宮さんはこの歌を「あられ降るほど寒い京都の夜だったが、国から送られてきた夜具(ふすま)で冬を忘れた」と歌ったものだと紹介し、多くの和歌からは「仏門に入っても揺らぐ上人の心が伺える」とも語った。しかし、その最後は「苦悩なく安然と化すと記録されているように数奇な運命だったが、仏道に入って心やすらかに眠った」とも述べた。
さらに遺物としての覚書には大中小の脇差もあり、それを遺品として与える遺言も残すなど出家しても佐竹家の出である僧侶であることを物語っているとも語った。花館の会、北方風土社の仲間たちは神宮さんの話に興味津々の表情で耳を傾け、歴史の裏に隠された人間ドラマや奥の深さに感動していた。