梁田友斎没後300回忌
出身地の美郷町六郷で偲ぶ会開く(3月23日・金)
江戸初期の秋田藩学の祖とも言われている美郷町六郷出身の梁田友斎の没後300回忌を記念に23日、同町六郷字大町の「永泉(ようせん)寺」で、「梁田友斎の遺徳を偲ぶ会」が開かれた。美郷町文化財保護協会六郷支部(宇佐美晃一支部長)と六郷史談会(高橋悦央会長)の主催で、遺族や松田知巳町長も含め約30人が参列、門間淳祐住職による法要の後、史談会幹事の亀井日出男さんが講師となって梁田友斎の遺徳を語った。
梁田友斎は1655年(寛文5年)、六郷の名門・梁田家に生れた。母も西鳥羽家という六郷の名門の生れ。20歳の時、義兄と共に京都に上り、山崎闇斎(あんさい)の高弟・浅見けい斎の門下に入り、儒学を学んだ。郷里に帰ってからは子弟に大学・論語などを教え、礼儀と学問を尊ぶ風習を広め、六郷が「学者村」と呼ばれる時代を築いた。そして秋田藩の重臣・梅津半右衛門利忠に招かれて秋田で崎門(きもん)学を門弟に教授し、「秋田の学問は友斎より始まる」と言われ、秋田崎門学の先駆者となった。1708年(宝永5年)、44歳で亡くなっている。
その墓は秋田市下北手桜の旧萬雄寺跡にあったが、05年6月に梁田家の墓地がある永泉寺に移された。
法要の後、亀井さんは「梁田家と西鳥羽家は六郷では社会的にも経済的にも指導者の立場にあった」と紹介し、鎌倉時代に中国から入った儒学の流れを語りながら、「浅見けい斎に弟子入りをしようとしたが、入門するだけでも大変、厳しいものだったはずだ」などと語った。
しかし、入門してからは梁田が亡くなるまで20年間も師弟関係を続けるほどの信頼を得、墓に刻まれた文字も師匠の浅見けい斎が書き、さらに哀文(あいぶん)も浅見の自筆だなどと梁田の墓石から写し取った拓本のコピーを資料として配りながら、その筆の払いの特徴を語った。
亀井さんの講話の後は梁田友斎の墓前を参拝し、その遺徳を偲んだ。主催者では今後、「友斎300年祭」として墓碑前に友斎の遺徳の説明版の建立や記念講演会なども計画したいと話し合っている。
本紙から=浅見けい斎の「けい」の字は糸偏に同の文字の「―」が無い漢字を充てたものです。作字してみましたが、文字化けとなるため、平仮名としました。