ユラユラと夜空の道先案内へ

西木村で幻想的な冬の行事「紙風船揚げ」(2月11日・水)

 紙風船揚げの故郷・西木村上桧木内は大曲市から北へ約50キロ、村の中心地にある村役場からさえもさらに20キロも離れた山奥の集落である。いくつもの峠と集落を超えて夕方4時過ぎにようやく上桧木内に着いた。夜の帳(とばり)が下りた6時半ごろ、断続的な雪をついて風船揚げは始まった。明かりを灯した巨大な行灯(あんどん)はユラリユラリと漆黒の夜空の旅人となって天に舞った。華麗な武者絵や美人像が描かれた風船は天に登って小さな灯火となり、そして冬の螢火のように舞い、ポッとその姿を消した。9時ごろまで100個を超す紙風船の競演は続いた。

 西木村の紙風船揚げ。いつから、どんないわれで始まったのか。それを書き留めたものはない。ただ伝説で江戸時代の科学者・平賀源内が秋田藩の招聘(しょうへい)を受けて、銅山の技術指導 に訪れた際に村に立ち寄って、熱気球の原理を応用した遊びとして伝えたと言われている。

 西木村に入った。道路際に「風船揚げ会場まであと15キロ」といった会場案内の立て看板を目印に車を走らせる。峠を超えるつど路上の凍結状態は増し、目と鼻の先の距離なのに随分、道のりの遠さを感じさせた。「あと1キロ」。看板はていねいに残り距離を案内する。村がいかにこの祭に力を入れているか。温かい思い入れを感じさせた。

 会場は雑木林の山を背にした広さ2ヘクタールの雪の原っぱだった。多くの露店が立ち並び、あちこちで薪を燃やして観光客が暖を取っていた。サラサラした粉雪が舞っていた。テントの中に入った。「会長さん」と呼ばれる人がいた。紙風船揚げ保存会長で、元中学校長の小西五郎さんである。小西会長は「上桧木内は8つの集落があって、昔はその集落ごとに小正月祝いとして風船が出来上がり次第、人が集まっては酒盛りをしながら揚げたものです」と語った。それが一つの会場でまとめて揚げるようになったのは西明寺地区と桧木内地区が合併して西木村が誕生した30周年を記念に役場から「村の観光行事にしたい」と申し入れがあったのが切っ掛けだという。

 上桧木内は8集落合わせて259世帯。人口は約900人。紙風船作りは12月ごろから、住民総出でかかるという。幅1メートルほどの業務用和紙を張り合わせ、長さ3メートルから6メートル、大きいものなら9メートルものジャンボ風船を作り上げる。大人たちはそれに武者絵や美人画を描き、子供たちはマンガのキャラクターを描いて出来具合を楽しむ。

 風船の構造は円筒形で、熱風の入り口を風船の大きさに合わせて直径1メートルから3メートルに絞り込んで竹の輪を取り付け、その輪に針金を十字に結んでタンポと呼ばれる燃焼玉を固定する と完成する。燃焼玉と言っても、石油をしみ込ませたぼろ布を丸めたものだ。

 会場では特設舞台も設けられ、地元の小中学生が舞台で民謡踊りも披露していた。そしてようやく暗くなった午後6時過ぎ、小さく畳み込まれた紙風船が会場に持ち込まれ、広げられた。雪原に横たわった紙風船の口の部分にガスバーナーが当てられ、熱気を吹き込むと平べったい紙は段々に生き返ったように膨らみ、炎を灯した巨大な行灯となって浮き上がった。5〜6人の大人たちがそれを支え、「放すぞー」の掛け声と同時に風船は燃焼玉の熱エネルギーを揚力源に夜空へと旅立った。

 ユラユラと夜空に舞う巨大な行灯。5個、7個、8個の小さな風船の群れは、気ままに夜空に舞い、断続的に降る雪を払いのけスピードを上げてぐんぐんと昇っていく。「うわーッ」。見上げる 観光客の歓声が沸き上がった。淡黄色の灯火を照らして夜空の道先案内人のように舞う紙風船。次第にその姿は小さな星となって、そして消えた。「雪雲を突き破ったのです」と小西紙風船揚げ保存会長。風船は300から〜500メートル上空に漂う雪雲をいとも簡単に乗り越えて、1000 メートル近くも上昇していくという。10分から20分ほどで燃焼玉は燃え尽き、風船の命も終える。

 昔は「五穀豊穣」「家内安全」「無病息災」を祈って揚げた紙風船。今は「交通安全」や「合格 祈願」も込めて風船を揚げる。小西さんは「紙風船のご利益はあります。何しろこの集落からは過 去20年間、高校受験に滑った子はゼロですから」と元中学校の校長先生らしく、大きく胸を張っ た。「まあ。生徒34人に先生が12人。徹底的な個人指導が出来る面もありますが」と笑った。その辺は別として、紙風船揚げという夢とロマンを込めた西木村の冬の行事はまるで美しい子供の 絵本を見ているような気分にさせた。